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灰谷健次郎とぼく



灰谷さんとぼくとの出会いは小学四年生頃です。ぼくはいじめられっこでありましたので、
よくよく図書室や図書館で借りた本を、昼休みに開く子供でした。
灰谷さんは、どうやら、ぼくの考えが簡単に理解出来るらしく、ひじょうに立派な先生でした。
初めて読んだ灰谷さんの小説は兎の目でありますが、あの頃からやっと、社会って何だろうと、漠然と考えたものです。
ぼくにとって、読書は、幼少期の孤独を浮き彫りにしますが、
同時に孤独を幸せに感じる救いの道すじを残してくれるようなツールである気がします。
孤独でなくては出来ないことであるがゆえに、現在では、読書という行為が、社会の隅に追いやられている様子を少し、さみしく思います。
灰谷さんの小説は、大人になったぼくが再び手に取ろうとも、色褪せない美しさがあります。
ぼくは、あまり荒々しい文章よりも、美しい文章が好みなので、文学とは、ある種「俗っぽさ」が必要なものだと感じつつも、
灰谷さんのような小説を読むと、手も足も出なくなってしまいますから、お見事。と口から溢れてしまいます。

灰谷さんが兎の目の後に出した
「太陽の子」があります。
主人公の少女ふうちゃんが、てだのふぁ・おきなわ亭で沖縄料理家を営むお母さんと、病気のお父さんと暮らしているのですが、
その過程での「沖縄」という存在と、「戦争」という問題について、よく書かれています。
ぼくはどうしても、「沖縄」と「戦争」について、黙りこくってしまうタイプですが、知れば知るほど、黙ってしまうことが多く、
どうにも、何を言うにも、間違っているような気がしており、作中にある「沖縄人は郷土愛なのか」という問いにも、
正しく答えられそうにはありませんでした。
表面的にはそうであるのに、はっきりそうだと言えないぼくがおり、では、「宮城県民は郷土愛なのか」と引き合いに出して考えると、
ぼくは、沖縄の土台から答えようとすると、この簡単な問いにも、全くと言って良いほど、答えられなくなってしまうのでした。

話は遡りますが今年の6月10日付の朝日新聞に沖縄戦体験者の方々が多くの心の傷(PTSD)を負っていることについて触れていますが、
沖縄の方々にとっては今さらのことであると思うし、憤りを感じるのではないかと心配にもなりました。
新聞は最近のもので、カラー印刷もキチンとされ、
いかに、このことを無視してきたのだろうかと、自分達の振る舞いについて考えてしまいます。
ではなぜ、ぼくらはそれを積極的に知ろうとしなかったのだろうと感じるにも、ぼくは「難しい」と言うしか方法がないのですが、
こんな風に考えて、ふらふら路頭に迷ってしまう理由は、ぼくも、みんなも、沖縄に慰められて、慰められてしまうからだと思うのです。

話はそれてしまいましたが、灰谷さんの小説など、幼い頃に触れた本は、ぼくの記憶にきれいなままの形で残っており、
このような経験を、しておいて良かったと感じることは、最近になって、多いように思います。
勉強(処理能力)よりもまず、日々の栄養を、取りたいものです。


加藤 明日花






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